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投稿者:

ZYAO22編集部

【れとりっぷ】関ケ原の戦いや竹中半兵衛ゆかりの地|岐阜県垂井町へ戦国旅

戦国時代を語る上で外せない地・岐阜県。多くの城跡や武将の生きざまを感じられる史跡が数多く残されていることから、戦国観光には最適です。戦国観光×ご当地グルメ×映えスポット×NEWスポット…地元が誇るたくさんの魅力を、岐阜新聞女子ネットのメンバーらと“再発見”してみませんか。今回は垂井町を旅しました。

 

関ケ原の戦いや半兵衛を語る上で絶対に外せない激アツの地・垂井町

垂井町観光協会が発行している観光マップの表紙の「垂井抜きに関ケ原合戦は語れない」という目を引く文字。戦国ファンの中には、この言葉に「その通り」と大きく頷いた方も多いでしょう。

 

垂井町は関ケ原町の東に隣接していることから戦い当日には複数の武将が布陣。南宮山(419m)には西軍の毛利秀元・吉川広家ら約3万の兵が控えていました。合図を受けて秀元は進軍しようとしましたが、先陣を任されていた広家は東軍と密約を交わしていたことから応じませんでした。秀元からみて広家は20歳近く離れた従兄にあたることから強く出られず、南宮山のふもとに陣を敷いていた長束正家、安国寺恵瓊、長宗我部盛親も進軍できませんでした。秀元は再三の出撃要請に対し、兵が弁当を食べているという理由で時間を稼ぎ、戦わなかったと言われており、この逸話は「宰相殿の空弁当」として語り継がれています。

 

そして西軍がたった一日で敗れてしまったことはご存じの通り。もし西軍の3万の兵が参戦できていたら…。結果は大きく変わっていたかもしれません。

 

垂井町の戦国の歴史を語る上で、垂井町岩手に居城し、豊臣秀吉に仕えた名軍師・竹中半兵衛も外せません。同じく秀吉に仕えた黒田官兵衛とともに「二兵衛」「両兵衛」と称され活躍しました。

 

半兵衛は1544年、美濃国大御堂城(現在の大野町)生まれ。1558年に父・重元とともに垂井町岩手地区で勢力を誇っていた岩手弾正を攻略したのを機に岩手に移りました。

 

翌年、菩提山(402m)にもともとあった城をベースに、重元は南北約300m、東西150m、竪堀や高低差の大きい堀切を複雑に組み合わせた全国屈指の規模を誇る城を築きました。近江国境という場所柄、強固な山城が必要だったのではと推測されています。城ができてほどなくして重元が没したため、半兵衛が城主となりました。

 

半兵衛は、難攻不落といわれた稲葉山城(岐阜城)をわずか16人で乗っ取りました。それが織田信長の耳に入り、家臣の秀吉に迎え入れられました。以後、姉川の戦い、小谷城攻め、長篠の戦いなどで活躍するも、1579年に36歳の若さで病死しました。半兵衛は、戦いに集中するためにあえて貧相な馬に乗ったり、「戦わずして勝つこと」を心掛けたり、民衆の心や暮らしの安定に常に気を回していたこと、官兵衛との熱い友情などさまざまな逸話が残されており、それが故に半兵衛にどっぷりはまる戦国ファンは多数です。

 

半兵衛の子・重門も秀吉に仕え、小牧・長久手の戦いや慶長の役に参戦しました。竹中家の領地内で行われた関ケ原の戦いでは、当初、西軍に属していましたが東軍に転じ、旧知の仲の官兵衛の子・長政と協力して大功を立てました。戦いの後は麓の竹中氏陣屋を拠点にしました。

 

竹中氏陣屋跡は白壁の櫓門、水堀、石垣の一部が現存しています。櫓門をくぐることはできますが、門をくぐって数m先からは岩手小学校の敷地ですので奥に進むことはできません。竹中氏陣屋跡には竹中半兵衛像が、その400mほど北には竹中氏と家臣の菩提寺・禅幢寺があり、重元や半兵衛らの墓があります。そしてその先には菩提山城跡に続くハイキングコースの入口が。コースは4つあり、山頂までの距離は13102036mと日ごろ鍛えていなければなかなかハードですが、本曲輪から見る景色は格別です。

 

鉄の神様・南宮大社で初詣を

南宮山の麓にある南宮大社は、金山彦大神を主祭神に旧国幣大社で美濃国一の宮として、また全国の鉱山・金属業の総本宮として古くから信仰を集めています。初詣スポットとしても人気で、多い年だと3が日で30万人ほどが訪れます。

 

関ケ原の戦いの際、社殿の全てを消失してしまいましたが1642年に徳川家光によって再建。「南宮造」と呼ばれる独特の様式で、18の建造物が国の重要文化財に指定されています。

 

境内の稲荷神社へと続く道中には100基の朱色の鳥居がずらりと並ぶ「百連鳥居」があって映えスポットとして人気を集めていますが、取材の日はまさかの修復中。より美しくなった鳥居に期待大です。

 

鳥居の近くには毛利秀元陣跡へと続く南宮山ハイキングコースの入口があります。38㎞の道のりで、菩提山城跡ハイキングコースに引けを取らないハードさですが、四季折々の自然や名所・旧跡など見どころいっぱいです。

 

中山道垂井宿関連でも戦国ネタが満載

垂井は中山道の宿場町、南宮大社の門前町であるのと同時に美濃路の起点にもなっている交通の要所で、関ケ原の戦いの後に徳川家康はこのあたりを通って帰ったことから「吉例街道」との名もあります。

 

家康は主要街道において、旅人の休憩所や人馬を借りる駄賃定めのために、1604年から8年かけて一里(約4㎞)ごとに一里塚を築かせました。垂井町内にも設けられ、南側の1基はほぼ完全に残っていることから国の史跡に指定されています。中山道では垂井一里塚と東京都板橋区の志村一里塚の2ケ所だけで、交通史上重要な遺跡となっています。

 

関ケ原の戦いではこの場所に東軍の浅野幸長が陣を敷き、南宮山の毛利秀元らの出撃に備えました。

 

中山道から少し南に入ったところには「垂井」の地名の由来となった垂井の泉があり、岐阜県の名水50選に選ばれています。その横には明確な遺構は残されていないものの、垂井城があり、関ケ原の戦いで西軍として参戦した平塚為広が居を構えていたとされています。

 

映えまくりな老舗発の緑茶フレーバーティー

たくさん観光をしたら、欲しくなるのがお土産。創業から180年余の歴史を持つ老舗茶問屋の白井製茶では、まろやかな「美濃いび茶」、香り高い「美濃白川茶」の他、全国各地のお茶を取り扱っています。

 

そんな老舗を背負う六代目の白井駿介さんと弟の遼介さんが「ペットボトルのお茶が主流になった現在において、若い方に手に取ってもらえるものを作りたい」と考案したのが緑茶フレーバーティーです。ハーブと県産の緑茶を独自にブレンドしたもので、垂井町の特性を生かした優れた食品、工芸品、畜産物に対して町が認証する「垂井ブランド」にも選ばれています。

 

驚くのはその鮮やかな色。いび茶とハーブを掛け合わせ、あさぎ、かなりあ、もえぎ、あかね、あやめ、やまぶきの6色を販売しています。着色料は一切使っていません。「ハーブは一から勉強しました。掛け合わせたところでおいしくなければ意味がありませんので、色合いと味を長い時間かけて追求しました」と遼介さんは振り返ります。

 

緑茶フレーバーティーは店頭でも買えますが、土日祝日休みなので要注意。戦国旅の流れで行くのであれば、お隣・関ケ原町の岐阜関ケ原古戦場記念館の別館ショップでの購入がおすすめ。垂井観光とセットでGO

 

その日にとれた卵を旅のお土産に

垂井には知る人ぞ知る、この地ならではの喜ばれるお土産もあります。それが何かと言えば…卵です。北部の山々に囲まれた場所にある慈鶏園では約15000羽の鶏を平飼いしています。鶏がその日に生んだ赤玉自然有精卵が買えるのが特徴。新鮮すぎるがゆえ、1週間ほどは加熱しても白身がうまく固まらないそうで、それまでは生で食べるのが一番だとか。すぐに調理に使いたい方に向けては、「ゆで用」の販売もあります。

 

サイズはSS3Lまでありパックもしくは㎏単位で販売しています。お店の方曰く、味は一緒。妊娠中に食べるとお産が軽くなるという言い伝えのある、若鶏が初めて産んだ小ぶりで希少な「初たまご」も同じ値段で購入できることから、数カ月に1回、初たまごがとれた日には、事前に予約をしておいた妊婦やその家族が遠方からはるばる買いにくるそうです。