【れとりっぷ】刀剣や包丁ずらり「世界の三大刃物産地」岐阜県関市 キラリと光る魅力発見旅
戦国時代を語る上で外せない地・岐阜県。多くの城跡や武将の生きざまを感じられる史跡が数多く残されていることから、戦国観光には最適です。くしくも新型コロナウイルス感染症の影響で、「近場」「屋外」「ふらっと行ける」旅がちょうど良い昨今。この機会に、地元の魅力を、岐阜新聞女子ネットのメンバーらと“再発見”してみませんか。今回は関市を旅しました。
戦のマストアイテム「刀」から戦国時代の戦いの変遷を知る
戦国武将のマストアイテムと言えば、何と言っても刀!平安時代後期以降に刀剣が作られていた山城伝(京都府)、大和伝(奈良県)、備前伝(岡山県)、相州伝(神奈川県)、美濃伝(関市)は「五箇伝」と呼ばれ、中でも美濃伝は「折れず、曲がらず、よく切れる」刀を大量に生産していたことから、武器として重宝されていました。
五箇伝の中で、美濃伝の始まりはもっとも遅く、関鍛冶の刀祖とされる元重が関に移り住んだ鎌倉時代末期から室町時代初期に成立したとされています。関の刃物を全国的に有名にしたのは、室町時代後期の孫六兼元(二代目)と和泉守兼定(二代目)です。兼元の刃物はその切れ味に定評があり、石でできた地蔵をスパッと切れたという逸話も残っているほど。豊臣秀吉などが使ったとされています。兼定の刀の特徴は地鉄の美しさ。良質な鉄を入手できる=有力者と深い関係があったのではと言われています。明智光秀や武田信玄の父信虎らが愛用しました。
関鍛冶伝承館は、古来より関に伝わる「関鍛冶」の匠の技を今に伝える施設で、刀剣愛好家にはたまらない場所です。館内の刀剣展示室では、ずらりと並ぶ日本刀の持ち手部分にご注目を。柄に茎(柄に覆われて見えない部分)を固定する際、「目釘穴」を空けるのですが、この数や位置を見れば、何人の武将に使われたか、どんな風に改造されていったかが推測できます。室町時代は、馬に乗った戦が主流でしたので、長さのある「太刀」が使われていましたが、戦国時代は馬から降りて相手と近距離で戦うことが多くなっていったことから、片手で素早く扱える刀が求められました。そのため、長かった太刀を短くして刀に改造することは珍しくなく、その跡がくっきりと残っています。
刀が作られるまでを紹介しているパネルや映像も必見。1200~1300度に熱されたオレンジ色の鋼を刀匠が大槌で叩く姿は、映像で見ても大迫力ですが、10月8、9日の関市刃物まつりの日と毎月第1日曜日には、刀匠等が実際に行う古式日本刀鍛錬を見ることができます。また同日程で、刀を研ぐ研師、持ち手部分を装飾する柄巻師、刀を収める鞘をつくる鞘師、刀身と柄をつなぐための作業等をする白銀師による一部工程の実演もあり、目の前で繰り広げられる匠の技に圧倒されること間違いなしです。
岐阜関刃物会館で触って選んで
室町時代初期から数えて700年もの歴史がある関の刃物。日本国内のみならず世界的に見ても刃物の一大産地で、「世界の三大刃物産地」の一つに数えられているほどです。
関の刃物をじっくりと選びたいなら、岐阜関刃物会館がおすすめ。地元メーカーや商社が手掛けた約2000点もの刃物がずらりと並びます。昨年、複合施設「せきてらす」の一角に移転オープンしたことで、これまで以上に関の刃物を触って選ぶことができる施設へと進化を続けています。
昨年12月には、売れ筋の三徳包丁20本を並べ、握り心地や重さを気軽に確認できる「握り体験コーナー」を開設。「日常使いの包丁を選びにきたけれど、たくさんありすぎて困ってしまう」というお客さんに朗報です。触ってみると確かに感触が全く違うため、じっくりとお気に入りの一本を選ぶのに最適です。コーナーに置かれている包丁の刃は、けがをしないように加工されているため、切れ味の確認はできません。
また本年度からは、中学生以下を対象にした鉛筆削り体験を開始。安全ガードのついた「スカッター」を使った削り方をスタッフが教えてくれます。一本の鉛筆を専用のカッターで丁寧に削ることはなかなかないこと。親子連れに早くも大人気です。
暑い日に日本刀を食べる!?
「暑いし何か食べたい…」と思っていたところ、岐阜関刃物会館で見つけたのが日本刀アイス。全長30㎝ほどで本当に日本刀の形をしています。地元の刀匠が監修し、老舗の和菓子屋がアイスをつくり、地元の洋菓子店が鍔としてクッキーをつくり、ラベルも柄も関市の企業が…というオール関の逸品です。味は関市の特産にちなんで洞戸キウイと上之保ゆずをチョイス。カッチコチのアイスバーを想像していましたが、ゼリーに近いつるんとした食感。爽やかでとっても美味でした。
「うなぎのまち関市」の名店18店がひと目
岐阜や中濃に住んでいる、勤めているという話を県外の人に話した際、「関市内って、うなぎ屋がたくさんあるよね」と言われたことはありませんか。れとりっぷ取材陣のうち、複数人が言われたことがあると判明しました。しかし、「どこがおいしいの?」と聞かれても「全部の店に行ったわけではないし、好みもあるし」と答えに窮することもしばしば。さらには、「そもそもどうしてこんなにうなぎのまちと言われるのか?」という疑問がふつふつと沸いてきました。
そんな数々の疑問に答えてくれる優秀なリーフレットを発見。その名も「関うな丼マップ」です。関市観光協会が発行しているもので、関市のうなぎ専門店5店舗とうな丼が食べられる飲食店13店舗が写真とともに紹介されています。タレについては「甘め」から「辛め」まで5段階で記されているため、好みの味の店を探しやすいのもポイントです。
関市とうなぎの関係については、刀匠たちがスタミナ源として、またお客さんへのもてなしとして、古くからこの地で食べられてきたと記載。昔は小瀬鵜飼の際に鵜がうなぎを獲ることもあったようですが、飲み込みにくいことから「“う”が“な”ん“ぎ”する」ことにちなんで、「うなぎ」という名前が付けられたという興味深い説も書かれていました。
リーフレットを見れば見るほど、食べたい熱はまさに“うなぎ登り”に。久しぶりにお気に入りのあの店に行ってみようかしら。いや、マップをせっかくもらったんだから、行ったことない店を攻めてみるべきか…。悩みは尽きません。
戦国武将も深い関わりがある小瀬鵜飼
毎年、5月11日から10月15日の間、関市の長良川で行われる伝統漁法である小瀬鵜飼。新型コロナウイルス感染症の影響で、2020、21年は開幕日の延期を余儀なくされましたが、今年は3年ぶりに通常日程で「鵜飼開き」をすることができました。
関市の奥長良川一帯が暗くなった頃、鵜船とお客さんが乗る屋形船が並行して川を下っていきます。辺りは真っ暗で、あるのはかがり火の灯りだけ。鵜はかがり火に照らされながら水中に潜っては魚を捕えていきます。小瀬鵜飼は、鵜匠が鵜を操る姿を間近で見ることができるため迫力満点です。
起源をたどると奈良時代にまでさかのぼる小瀬鵜飼は、「戦国ゆかりのモノやコト」という観点ではあまりくくられませんが、実はある戦国武将が大きくからんでいます。それが誰かと言うと…なんと織田信長!鵜を操って魚をとらせる人のことを「鵜匠」と命名したのは信長との伝承が。また、美濃を制圧した信長は、武田信玄が遣わした使者を鵜飼でもてなしたとも言われています。江戸時代に入ると鵜飼は徳川将軍家にも愛され、鵜飼で獲れた鮎は、徳川将軍家に献上された鮎鮨の材料になったとされています。
小瀬鵜飼の鵜匠は、現在は3人。岐阜市の長良川鵜飼の鵜匠とともに「宮内庁式部職の鵜匠」という、国家公務員の身分で働いています。小瀬鵜飼の乗船場近くには、鵜匠が営む料理旅館があり、長良川で獲れた天然鮎を食べられたり、鵜を間近で見られたりも。鵜飼が終わった後にそのまま泊まり、翌朝は鵜匠が鵜を世話する様子を見るという贅沢な鵜飼三昧をしてみてはいかが。