【インタビュー】Novelbright 圭吾さんが語る音楽活動の原点とこれからの夢|ZYAO22特別インタビュー
岐阜県ゆかりの著名人へのインタビュー特集「ZYAO22特別インタビュー」。
初回のゲストは人気バンド「Novelbright(ノーベルブライト)」でベースを担当する岐阜県出身の圭吾さん。
音楽活動の原点や今後の目標について語っていただいたほか、岐阜県のZ世代に向けたメッセージもいただきました!
環境がいいから、いい音楽ができる。日々環境に感謝しています。
音楽との出会い、Novelbrightとの出会い
編集部:まずは、音楽との出会いをお聞かせください。Novelbrightに加入される前はドラマーとして活動されていたとか。
圭吾:ドラムに触れたのは中2くらい。当時バンドをやっていた兄貴から、割り箸で「ビートってこう叩くんやよ」って教えられて、やってみたらすぐに叩けたんですよ。最初はギターを教わったんだけど、めっちゃムズくて。でも、ドラムはすぐにできたんで、どんどんのめり込みました。この頃から、ミュージシャンとして日本武道館に立つことを夢見ていましたね。高校生になってからは自分のバンドを結成して、ハートフルスクエアーGにある無料の貸しスタジオで、いろんな学校の学生たちと対バンを組んでライブ活動をしていました。やがて岐阜や名古屋のライブハウスでも活動するようになりました。
編集部:Novelbrightとの出会いはいつだったのでしょう。また、彼らの印象はいかがでしたか。
圭吾:ライブハウスの人から「Novelbright主催のライブに出てみない?」と誘われて、対バンしたのが最初ですね。21歳くらいのときです。Novelbrightの名前はよく聞いていて、勝手に28歳くらいの重鎮みたいなバンドやと思ってて、「8歳差があれば俺らもここまでいけるわ」と思っていたんですけど、いざ会ったら、とんでもないカリスマで、雄大が。もうギラギラ輝いてて。リハーサルで初めて歌ってる姿を生で見て、「何じゃコイツは!」と衝撃を受けました。その衝撃は今でも覚えていますね。そしたら、「俺らと同い年らしいな、よろしく!」って声かけられて。「俺のバンドは成功しないな」と、めっちゃ落ち込みました。
編集部:同じ年だと知って、雄大さんのレベルの高さに圧倒されたのですね。
圭吾:やっぱ、売れるのはボーカル次第だと確信しちゃって。僕がどんどんボーカルに対するコンプレックスが強くなって、耐えきれなくなっちゃったんですよね。だったらやめようと、バンドを解散しました。そんなタイミングで、雄大から突然電話がかかってきたんです。「今から飲もうぜ」って、夜7時くらいに。雄大は大阪、僕は名古屋にいたから普段だったら行かないですよ。でも、解散したばかりで次の当てもなく、「キーボードでもいいからNovelbright入れてほしい」という想いがあったから、その気持ちを伝えたくて、急いで新幹線に乗りました。そしたら冗談やと思われて「おまえアホちゃう」と言われて、その話は流れたんです。でも1年後にベースが抜けて、雄大とドラムのねぎくんが俺の言葉を覚えてくれてて、「アイツならベースでもやるんじゃない」と、誘ってくれたんです。「あのとき行動しておいて良かった」と思いましたね。
編集部:あの日の行動がなかったら今の圭吾さんはないわけですね。ベーシストへの転身でご苦労もあったのでは。
圭吾:最初は苦労を感じなかったけど、だんだんベーシストとしての自我みたいなものが生まれてくると、自分の実力のなさとか、歴の短さで他の人と比べちゃうんですよ。年下なのにあきらかに俺より上手いヤツもいて。自分で選んだ道やから全く後悔はしていないけど、悔しい気持ちはたくさんありました。だから、ひたすら練習をしました。コンプレックスを打破する方法は、練習以外にないと思うんですよ。ただ練習してライブで上手く弾ければ良し。自分に自信を付けて成功体験を積み重ねる、そのくり返しです。
メジャーデビュー後の音楽活動について
編集部:2020年にメジャーデビューし、日本レコード大賞新人賞を獲得して、2022年には夢だった日本武道館ライブも実現しました。この3年間を振り返って、ご自身の活躍をどのように感じていらっしゃいますか。
圭吾:「トントン拍子に進んで、Novelbrightってすごい!」っていう世間の印象と、僕らが内側から見ている印象とはけっこう違って。武道館ライブも初日は客席が少し空いてて、完全に達成感を得られたわけではないんですよ。武道館に立つアーティストってトップアーティストだから、そこと比べたら僕らはまだまだ未熟で、まだまだ先が長いと感じています。「ゲームをクリアしたと思ったら、まだ裏ボスがいた」みたいなメンタルですね。メンバーがそれを一番自覚しているんで、全員、常に焦りながら活動してると思います。
編集部:そんな中で、音楽活動を通して嬉しかったことは何ですか。
圭吾:嬉しかったことしかないですね。僕は楽観的すぎて、毎日が楽しい。何が楽しいかというと、まずはメンバーが仲がいいこと。休みの日もみんなで遊びに行ったり、アメ村(大阪・アメリカ村)や原宿へ行って、ライブの衣装を買いに行ったり。バンドメンバーというより、友達や家族くらいの距離感で過ごしている感じです。そして、スタッフのチームワークがいいこと。ビジネスパートナーであるべきところはあるんですけど、〝親戚のおっちゃん〟とワイワイしているみたいな空気感がすごく良くて。それがライブのピュアさにつながっていると思います。音楽って、普段の環境から生まれるものなんで、環境がいいから、いい音楽ができる。日々環境に感謝していますね。
編集部:今後の活動について、また、それに向けて取り組んでいることはありますか。
圭吾:東京ドームではやりたいと思っています。そのためにも音楽面でのレベルアップですね。3年前は、路上ライブの動画をTikTokでバズらせたという過程があるんですけど、これはもう二度と起きないと思うんですよ。TikTokって一発屋量産機みたいなもので、バズるのは戦略的である以上に、偶発的に生まれることの方が多い。世間の流行や波にたまたまタイミングが合っただけなんで、長く生き残っていくためには次はもう地道にやっていくしかない。そのうえで必要なことって、〝地ヂカラ〟やと思ってて、地ヂカラがない人ってポンと上がってもスンって落ちるんですけど、地ヂカラがあれば積み上げていけると思うんですよ。今は一つずつライブをちゃんとやっていく、お客さんを一人ずつ増やしてファンをつくっていく段階だと思っています。
周りの言うことは気にしなくていい。自分が大事だと思うものを信じてほしい。
今後の目標
編集部:圭吾さんご自身の今後の目標はありますか。
圭吾:それは、岐阜駅前にある金色の信長像を僕に変えることですね(笑)。僕は岐阜で暮らしているときは岐阜にコンプレックスがあったんです。そもそも芸能界でサクセスする紐、つかむものがないんですね。その中でも、やってきたことはすごい経験になってて、その経験を積めた岐阜に今は感謝していて、上京してから地元愛が芽生えるようになりました。なんで、岐阜に恩返ししたいと思っていますね。まだ何も決まってないんですけど、岐阜で何かを残すことができれば、僕がアーティストをやっている意味があるなと思います。
編集部:それは岐阜県人として嬉しい限りです。岐阜に住むご両親も喜ぶと思います。
圭吾:僕はとんでもない息子やって。高校卒業してすぐに家を出て、名古屋に行ったんですよ。それも親に何も言わず、親の車で出て行ったんです。最低ですよね。でも、お金に困って消費者金融で借りたときに実家に住所がバレて。それで親から仕送りとか手紙が届くんですけど、なんの成果も出してない状態で連絡できなくて、泣きながら送ってもらったメシを食うという生活を1~2年続けてました。あのころは「めちゃくちゃ心配させてゴメンね」という気持ちが大きいんで、その分、今はマメに連絡するようにしています。そのとき乗っていった車も、ちゃんと返しました。軽自動車を外車にして(笑)。
編集部:まるでドラマのような出来事ですね。そのころ、CHRONOIZMというアパレルブランドを立ち上げていますが、その経緯は。
圭吾:19歳で家出して、バイトをしながらバンド活動をする生活をしていたんですけど、バイトをすることによってバンドができないジレンマがあって。これを抜け出せないインディーズバンドマンは成功しないと感じてたんです。じゃ、自分で仕事を始めて生計を立てようと。僕は服が好きだったんで、また借金してPC買って、自分でデザインして、シルクで刷って、作ったTシャツをSNSで販売したんです。そうしたら、けっこう売れて、50~100万円くらいのお金が入ってきました。そのうち自分ひとりではできなくなって、「手伝ってくれ」と実家に帰りました。とんでもない息子ですよね、困ったときだけ帰ってくるんだから。でも、今も家族経営していて、母もお客さんに商品を届けることが喜びの一つになっているので、結果オーライです。
岐阜県で働く若者に向けたメッセージ
編集部:では最後に、岐阜で働く若者たちにメッセージをお願いします。
圭吾:僕が今までやってきたことは、パッと聞くとアホみたいなことが多くて、周りから「無理っしょ」「何言ってるの?」って言われることも多かった。けど、周りの言うことはマジで気にしなくていいと思う。自分が大事だと思うものをちゃんと信じて、それを好きだと言える自信みたいなものをちゃんと磨いて、自分のやりたいことをやってほしいなと思います。「何かを始めるのに遅すぎることはない」という僕の好きな言葉があるんですが、これはほんとうにそう。僕も途中からベースを始めて劣等感マックスみたいな時期があったけど、「この言葉を体現するチャンスだ」と思って続けて、ベース歴3年で武道館立ったんで。何か原動力さえあれば、叶えられることはたくさんあると思います。